『ヤマトタケル』とは何だったのか?

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久しぶりに特撮ネタやります。
純朴特撮大好き陶芸家の
奥田大器です。

この前が『ゴジラ84』でした。
そして今回が
ヤマトタケル』です。
出た!!待ってました。
公開は94年の7月です。
もう20年以上前になるんやな~。

この作品、酷評する事は簡単です。
しかしその作品が当時どういった
位置にいてどう受け止められていたか。
これを書き記しておきたいと思います。

太平洋戦争を批判する事は
簡単ですが当時の時代の空気が
どうだったのか?
それを解らないと事象の考察なんて
出来ないと思います。

1994年の夏、『ヤマトタケル』が
世の中坊にどう受け止められていたのか。
ここからこの作品が特撮映画史に
残した意味を探っていきたいと思います。

わたしゃ公開当時中学2年生でした。
信楽中学校の野球部員でした。
この『ヤマトタケル』は
その野球部員5人で観にいきました。
さあ、ここです。
この俺以外は全く特撮には興味ありません。
普通の中学生です。
そんな奴が「観に行きたい。」と思っていた訳です。

これが当時の東宝特撮作品の力でした。
もっと言うと『平成VSゴジラシリーズ』が
中学生(主に男子)の心を捉えていた時代です。

『ヤマトタケル』はかなりの宣伝量でした。
健全な中学生男子が観に行きたいと
思える映画だったという事です。
まっ、劇場はガラガラでしたけど。

そんな確実に観る層が想定できた為か、
この『ヤマトタケル』は3部作構想でした。
当時のゴジラマガジンにも
夏は『ヤマトタケル』冬は『ゴジラ』の
60年代の特撮黄金時代の再来だ。
みたいな事が書かれていました。

一昨年の京都みなみ会館の
『ヤマトタケル』特集の大河原監督の
トークショーに行ったのですが
この3部作構想は会社内でも
自然消滅したそうです。
沢口靖子もノリ気だったそうです。

この作品は簡単に言うと、
日本書紀の映画化です。
古代SFファンタジー物です。
『ロードオブザリング』ですよ。
これを日本でやろうとしたみたいな物です。

90年代はまだ
平成ゴジラシリーズが大ヒットを
連発していたので
こんな壮大な企画が通ったのだと思います。
当時にはもう特撮映画は駄目だ駄目だと
言われていましたが、
今から見るとまだ夢があった時代だと思います。

この映画が当初の期待ほどの
利益が上げられませんでした。
平成ゴジラシリーズの半分くらい。
これでゴジラ以外の特撮物は
あかんみたいな事になったんだと思います。

この映画以降、
大特撮で全国公開規模で、
オールスターキャストで、
完全オリジナル、リメイクでも無い
特撮映画の製作は無くなります。
『ヤマトタケル』が最後です。
(注、このヤマトタケル自体が
「日本誕生」のリメイクだという話もあります)

すなわち、ゴジラやモスラやガメラでないと
新しい特撮映画は作られなくなります。
ヒットの担保が無いと
特撮映画は作れないという事になります。
後はテレビからの繋がりがあるもの。
(戦隊ものや平成仮面ライダーもの)

それを考えると
『ヤマトタケル』、貴重な作品です。
日本映画史の
最後の完全オリジナルキャラによる
大特撮映画という事になるかもしれません。

この『ヤマトタケル』から22年の時を経て
今年『シン・ゴジラ』が公開されます。
奇しくも同じ7月です。
最後の東宝製作のゴジラから12年。
特撮技術(特殊撮影技術)は
今や色んな映画に使われています。
もう20年前の様に”特撮映画”といって
一括りに出来ない世界になっています。

素晴らしい事です。
映像表現技術の発達が面白い映画を
僕達に見せてくれます。

しかしそれは”特撮映画”という文句では
お客さんが入らない時代になったという事です。
あの禍々しい、仰々しい、大袈裟な、
ワクワクしたイベント感が有ったジャンルは
簡単には還ってこないという事だと思います。

90年代は、
60年代的”特撮映画”が存在した
最後の時代だと思います。
『ヤマトタケル』という企画が
全国上映までこぎつけた事が
その証明だと思います。

しかしこの『ヤマトタケル』の
興行的不入りが”特撮映画”という
ジャンルの融解を示す
最初の事象だっとと思います。

『ヤマトタケル』とは何だったのか?
この当たりで締めたいと思います。
御清聴有り難う御座いました。

・次回の特撮ネタ、
『怪獣総進撃』はこちら。

・前回の特撮ネタ、
『ゴジラ (84年版)』はこちら。

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