多羅尾代官所の歴史に思う事

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本日は多羅尾代官所について。

私、奥田大器の親元は多羅尾です。
ある意味多羅尾陶芸家です。
多羅尾といえば代官所です。
その多羅尾代官所について
僕が勝手に考えてるいる事です。

この地域、近辺の天領(幕府直轄領)を
取り仕切ったのが多羅尾代官所です。
天領の石(米)を徴収し、
治安維持(警察)の機能も果たしていたそうです。
多羅尾には処刑場跡もあります。

天領ですから
代官の多羅尾氏は幕府直轄のお役人になる訳です。
中央官僚が地方にいるみたいな感じでしょうか。
天下泰平の江戸時代、
かなり有力な幕臣として扱われたらしいです。

そもそも何故、多羅尾に代官所が置かれたのか?
信楽町多羅尾地区は伊賀のすぐ裏です。
伊賀は京都、大坂(当時の漢字)に
東海道とは裏ルートで
抜けられる戦略上重要な都市でした。

徳川家康が大坂侵攻の備えとして城普請の名人、
藤堂高虎に伊賀上野城を作らせたのもその為です。
大坂を攻めるに当たって重要地域だからです。
(でも出来た城が凄すぎて
逆に藤堂高虎にあらぬ疑いが
掛けられたそうです。
だから築城して直ぐに潰したらしい。)

京都(朝廷)は
天皇の皇居がある【
権威】の中心地、
大坂(堺)は
天下の台所【経済】の中心地です。

徳川幕府に”謀反”を起こすなら
“伊賀”は抑えなければならぬ要衝です。
ですのでこの地域にある程度幕府の目を光らせ、
地域の情勢を掴み、又は扇動、操作する為に
代官所を置いたのではと僕は思っています。

甲賀、伊賀の忍者勢力とも連絡が取りやすい場所です。
伊賀の忍、服部半蔵は幕府お抱えの諜報員です。
江戸城の”半蔵門”は服部一族が代々、
管轄下に置いていました。
その役目は諸藩や反幕府勢力の情勢を分析して
江戸城の”中央”に挙げる事です。
服部一族の勢力とも
情報や連絡を取り合っていたと思います。

そもそも多羅尾、
滋賀南部、甲賀地方一帯は
藤原氏の流れを汲む近衛氏の荘園でした。
戦前の総理大臣近衛文麿の一族です。
ちょっと前の総理、
陶芸家で日本新党の細川護煕さんもその一系です。
(元総理陶芸家)

それを地元の豪族、多羅尾氏が
奪い取っていったみたいです。
室町時代、戦国の時代の話です。
ですから多羅尾を中心とした地域は
元々は時の中央政府の勢力外みたいな
ところがあったと思います。

それが徳川家康の伊賀越えの時に協力した。
天下がどう転ぶか解らなかった時に
多羅尾は家康に付いたわけです。
狸親父は一体どんな手を使ったのでしょう。

京を中心に事実上のクーデターが起こってる時に
多羅尾はとにもかくにも家康に協力した訳です。
考えたら恐ろしい事です。
もし明智の天下になっていたら
多羅尾は郷ごと葬り去られたと思う…。

情報収集にかけては
伊賀、甲賀は非常に優れていた証拠だと思います。
京のクーデター(本能寺の変)情報、状況を分析して
“家康有利”と踏んだ勢力がいたんだと思います。
家康もかなりの取引条件を言ったと思う。
その時の恩に家康が報いたのが
多羅尾代官所設置の経緯と言われています。

これが僕の考えている
多羅尾代官所の役目です。
ほぼ妄想ですが楽しいですよ。

多羅尾代官所は見学自由です。
是非皆様行って下さい。

※そんな多羅尾代官所の水琴窟跡はこちらから。

【大器の器Ch】再放送
気が付いたら1,500回見られていた
水琴窟ギャラリー動画をどうぞ。
初期の頃なので俺のテンションが低い。

※本日のブログは
2015年12月14日の再編集です。

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